お母さん…っ!お母さんまで 死んじゃうのっ…?

  届かない 悲鳴

 ごめんね…

  苦しそうに 呻く母

 桃…。

  力を失い 落ちる母の窶れた手


 ドンッ!

 強く扉を叩く音に目が覚める。ドンッ ドンッ と何度も五月蠅いほどに扉を叩き続ける音。
「桃 開けな此処!お迎えだよ!」
「は はいっ!」

 伸び放題の長い髪を 慌てて紐で括り 素足のまま扉を開ける。

  これでやっと

  物置部屋から 出れるのだ。

 雛森の心に有るのは 無論恐怖もあったが 寧ろ開放感の方が多かった。

「いいかい せめても高値で売れる事が私らへの恩返しなんだからね!」

 本当はそんな恩は頂戴してはいないのだが 雛森はそんな事も考えずに素直に頷く。玄関の前に居た馬に乗った深く帽子を被った男が頭を下げる。つられて雛森も頭を下げると 後ろの籠…というか 牢というのか…を指さされる。乗れの意だ。それに乗り込むと 何人かの少年少女と 雛森よりも年上の女性とが居た。子供達は寄り合いながらわんわんと喚いている。彼女ら 彼らは自分の意志ではないのだろう。

  可哀想…

 そう思っても 雛森に出来る事は彼等の頭を優しく撫でてやる事だけだった。前で男が馬を鞭打つ音が聞こえると 籠も動き出す。


 揺れる籠だけが 彼女の運命の先を知っていた。


 地下への長い階段を下らせられた後 両手両足を紐で繋がれる。
 歩けの命で 素足には冷たすぎるコンクリートを歩き回らせる。付いた場は値定め所で 至る所を触られる。あまりの気持ち悪さに 一瞬顔が歪む程に。
 一通りの値定めが終わると 白い簡易なワンピース…と称していいのか…を着せられ 地下三階の牢の中に押し込められる。

「お前等はオークション用だ。オークションは二ヶ月後。それまで飯は十分与えてやるから 倒れるんじゃねぇぞ?値が落ちるからな。」

 その台詞に雛森は呆然とする。冷える地下牢に 毛布も何もまともになく 薄いワンピースを着せられ押し込められているのだ。数少ない毛布も 小さい子供に与えてやらなければならない。

  二ヶ月も 此処で−…?

 唯一の救いだったのは 同じ牢に入れられた年上の女性が話し相手になってくれた事だった。
その女性と話して教えてもらった事はシンプルに一つ。

  目立たない 事。

 目立つと睨まれる。睨まれると 後で鞭打ちだ何だが必ず待っている。
 …体罰ならばまだ ましな方…。

聞くに堪えない仕打ちの酷さに 聞かされてる間に気分が悪くなり雛森はその話を途中で止めてもらった。そしてやっと解った。地下に入った時に 牢に入っている人々が一斉に奥へと身を顰めた意味が。

  そうして 気が狂いそうな一週間が経った。

 それでもやはり 目立たなければ三食きちんと出してくれるのだ。以前の生活に比べると 雛森にとっては何倍も有難かった。

 と その日 雛森が牢に入れられてから初めての 地下三階への来客が来た。

 地下一階が受け付け
 地下二階が一般販売
 地下三階がお得意様専用の高値品と オークション用の品 とわかれているらしい。

 カツン カツンと響く

「これはこれは!」

 声が響く。牢は細かく区切られている為に 目の前の廊下以外は身を乗り出さないと見えない。
 目立ってはいけない−…その理由で 雛森を含めた全ての人々が牢の一番奥へと身を顰めた。





「お久しぶりですねぇ 冬獅郎おぼっちゃま!」

 日番谷は この呼び名が物凄く嫌いらしい。彼は他人に下の名前を呼ばれるのはあまり好きではない。気分を害す呼び名だと思いつつも 訂正する事は敢えていつもしなかった。
 にこにこと笑顔で手をさすりながら近づいてくる小太りの男を見るといつも 職と顔は一致しないものだなと感じる。

  こんな人当たりの良さそうな…もとい 俺が嫌いそうな…野郎が人売りだっつぅんだからな…。

「本日はどのようなご用件で?」
 男に一瞥をくれ 日番谷は興味なさそうに早口に答える。

「女を一人だ。」

 看守はそれを聞くと 地下牢…日番谷はそう呼んでいる…の鍵を開けた。ずらりと並ぶ小刻みに区切られた牢を冷たい瞳で眺める。

「前回の奴が気に食わなかったんだとよ。アイツのお気に入りと喧嘩したんだと。」
「ははぁ…作用ですか それでは…」

ここの篭った空気が嫌いだ。吐き気がする…。胃が重くなる。

 出来る限り早くその場を出ようと 男の説明もろくに聞かずに足早に廊下を歩きながら左右を見渡した。



 ばちん と 彼と彼女の視線がしっかりと合った。



 と 唐突にかつんかつん という足音が止まった。その瞬間 異常な静寂に地下牢は包まれる。

 ―目立っては いけない…
 その言葉が頭を回り 思わず雛森はびくんと肩をすくめた。…目をそらさないと そらさないと…。そう呪文のように言い聞かせても 目はくぎ付けのままだった。

 あまりにも美しい銀色と 深い深い蒼色。

 眩しいほどに光を帯びた黒色に 全てを吸い込みそうな黒色。


世界に
こんなにも
綺麗な色が

存在するのだ―…


 世界が止まった。
 気が した。

「おぼっちゃま 右側は今度のオークション用になりますので 左側から…」

 反応しない日番谷にいぶかしげに男は眉をひそめた。

「冬獅郎おぼっちゃま?」

 その声にもやはり 反応しない。

「…っぁ…」

 奥に隠れていないと…そう思っても 徐々に徐々に柵の方へと近づいていってしまう自分を雛森は脳の隅で感じていた。体が 言うことをきかない。飲み込もうとしても その言葉は漏れた。


「きれ……い…」


 日番谷の瞳が ほんの少し見開かれた。

 欲しい。ただ そういう欲望が唐突に広がる。

「おぼっちゃま!」
 その怒鳴り声に 日番谷はやっと元の世界に戻った。一瞬間目線が視点を失い宙を浮く。

 さっき 確か何か言ってたな…右側が…えーと…?

 オークション用。そういう言葉を思い出して顎に手をあてる。考えるのもまた一瞬で終わった。

「20倍。」
「は?」

 まっすぐな瞳で日番谷は面くらっている男を見据えた。

「最低落札価格の20倍払う。…今すぐ売れ。」

 益々豆鉄砲を食らったような顔をしている男に 返答はどうなんだと急かす。無理な願い出だとは日番谷自身もわかっているが 向こう側も“お得意様の息子”という位置に居る彼の願いを無碍に拒否することが出来ないのも勿論分かっている。

「け けれども20倍と言いますと…」

 男の口から出てきた計算された答えは雛森にとっては手にした事どころか見た事も無い大金だった。おそらくマンションの一室ぐらいなら買えるのではないだろうか。

「ああ 頼む。」

 なんで と日番谷を見つめていると 目が合った。少し口の端をつり上げたその笑いを向けられ 頬が紅潮するのが解った。コントロールの利かない感情に混乱する。

「…わかりました。おぼっちゃまのお頼みとあらば。」

  お頼みとあらば?…金の為だろう よく言うぜ。

 そう日番谷は自嘲気味に笑った。全くもって 莫迦莫迦しい…そう思い 普段は此処で胸糞悪くなるが 今日は少し機嫌が良かった。掘り出しものを見付けた そういう喜びがあったからかもしれない。
 ぎぃっ…と重い音がして 扉が開かれる。

「早く出てくるんだ!」

 強く腕を引かれ 小さく雛森は呻いた。その手を庇う暇もなく立ち上がらされ 怒鳴られる。

「お前は名乗る事ぐらいも出来んのか?!」

 びくっ と肩を震わせて雛森は慌てて日番谷の方を向き 頭を下げた。

「ひ 雛森桃です よろしくお願いしますっ…!」

「…ふぅん…雛森 桃…か…。」

 日番谷は一度その名前を反復すると 満足げに笑った。成る程 似合っている。

「良い名前だな。」

 そう日番谷が口にすると 雛森はみるみるうちに顔を赤くした。

「あ…あり…がとう ございますっ…。」

 口ごもりながら必死に返す反応に なかなか上質を得たのかもしれないと日番谷は心中で思った。

「え…と…」

 上目使いの視線に 日番谷は雛森が何を言わんとするか感じとって笑った。

「俺か?」

 こくん と頷く雛森を確認してから その名を口にする。…何年ぶりだろうか 自分の名前を口にする事など。名刺で全て事足りるし そんな事をせずとも皆名前を知っているような奴ばかりだった。

「…日番谷 冬獅郎。」
 
 どくんと 温かいものが流れ込む感覚を雛森は感じた。高貴の中に 同じものがある…そう言っては傲慢かもしれないが…どこか 同じ所がある。高い人なのに 手を伸ばせば触れられる位置に居る気がしてならなかった。

「…ひつが…や…とうし…ろう…。」

 言いづらい名前を 何度も反復する。唐突に その呼び名が零れた。



「日番谷…君…?」



 勿論それは 身売りが 主人に言って良い呼び名では無かった。慌てて雛森は自分の口を押さえたが それはもう遅かった。男は怒りを露わにして怒鳴り散らした。

「お前!主人となられる方になんて慣れ慣れしいんだ!」

「うっせぇな。」

 唐突に日番谷が口を開いたので 男は思わず口を噤んだ。男に一瞥をくれてから 日番谷は雛森に向き直った。

「いいな そう呼べよ。」

 満足げな笑みに 雛森も男も一瞬間硬直した。

「良いだろう 別に。」

 ぐしゃり と男の手にサインの入った紙を突っ込むと 雛森の手を取って普段よりも少し低い声で言い放った。



「これで 俺のモノだ。」



 これ以上の言及は許さないという声に ぽかんと男は間抜け面を晒して立ちつくした。無論それも無視して 日番谷は優しく雛森の腕を引いた。

「行くぞ 雛森」


 良い買い物をした。そう日番谷は思いながら足早に階段を上った。


 あとは 親父がどういう反応をするかだけだ。


 大爆笑で済めばいいなと 頭の隅で思いながら。















『遊戯準備』





::後書::

初パラレル挑戦作品。
日記連載していたものをまとめたもの…の予定が
原型を留めない程の修正を必要としてしまいました…(苦笑)
長い話にはなりますが どうぞお付き合い下さい。